コラム・水平線

月刊誌『部落解放』の巻頭コラム「水平線」を著者のご了解を得て、転載いたします。

(2017/12/20up)




◆ 表現の自由、表現される不自由、そして表現による自由 ◆

〈『部落解放』2017年12月号掲載〉

ハン・トンヒョン

 先日、あるバラエティー番組が、誰が見ても同性愛者を嘲笑するようなキャラクターを数十年ぶりに復活させ、登場させたことが大きな批判を浴びた。一方で、「昔はよかった」「最近は窮屈」「表現の幅が狭まる」などといった声もあがった。
 近年、社会的マイノリティへの差別や偏見を助長するような表現が批判され、問題になるたびに同じようなことが起きる。先のような言葉でなぜかすぐに「表現の自由」と「表現の制約」という二項対立にしてしまう人たちがいる。それは問題を、「表現する側」からしか見ていないからだ。だがこれは、「表現される側」の問題だ。
 こうした場合の対象になるのは、その社会で「普通とはちょっと違うとされている存在」であることが多い。またほとんどの場合、その「普通とはちょっと違う」部分は偶然的な個別の特徴ではなく、社会的な属性にもとづくものだ。
 つまり、そのような社会的な属性にもとづいて、ネタとして選ばれがちな社会的マイノリティと、そうでない社会的マジョリティがいる、という不平等の問題なのだ(ここは、信頼する研究仲間のヘイトスピーチに関する持論の受け売りだ)。社会的マイノリティはつねに一方的に、「表現される不自由」を背負わされている。
 社会的マジョリティの「表現の自由」を守るために特定の属性の人ばかり動員され、傷つけられるのだとしたら、それはやっぱり普通に考えておかしいだろう。さらにその表現によってその不平等が助長されかねないのだとしたら、より理不尽だ。
 もし、みなが平等に、また偶然に傷つけられるのだとしたら、それは差別の問題ではない。だが、前述したように何がネタとして選ばれるかはたいてい社会構造と結びついている。だから、マイノリティの「表現される不自由」は、差別の問題だ。
 今回のような問題が「問題」として可視化され、批判が集まるということは、かつては見えないところで苦しんでいていた人たちが声をあげられるようになったということであり、それを支える人も増えたということだ。このキャラクターがレギュラーとして登場して笑いを取っていた頃より社会はよくなった。また、当事者や支援者でなくてもこれを笑えないと思う人が増えた。社会の変化によって、笑いのニーズも変化したのだ。
 今回のような表現を、多くの人が思っていても言えないことを言うというタブーへの挑戦として擁護する向きもある。しかし、多くの人が思っているのだとしたら、それは社会構造に支えられているということの証左であり、その対象としてマイノリティが選ばれがちだということは、やはり社会構造にただ乗りしているだけで、挑戦でも何でもない。
 また、受け手に理解してもらうためには社会的なコンセンサスを前提にする必要もあるかもしれないが、それが差別的な構造へのただ乗りだとしたら、単に怠惰なだけで、表現者として恥ずべきことだろう。
 真のタブーへの挑戦は、むしろ構造そのもの(やその象徴)を笑ったり、転倒させることなのではないか。こうして、新しい価値観や世界観を提示することで「表現による自由」を感じさせてくれる表現との出会いは、私にとって社会への希望になっている。

(日本映画大学教員)


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